「車で市街を離れると広がる野山は日増しに色付き赤・黄・緑とモザイク模様が目を楽しませてくれます。暑かった夏の体感が癒えぬのに朝夕は一気に冷え込み秋の深まりを感じるようになりました。これから冷えが一層強まると思うと寒がりの身には、やはり暖かい方がよいかと思ったりします。人間とは勝手で我儘な生き物だと思います。
やる気なくブログ書きからも暫し遠ざかりました。一日も欠かす事がないアイスクリームを食べながら野球中継を毎日のように喜んだり悲しんだりして楽しみました。が、巨人の優勝で今シーズンは終りとなりました。夏の疲れに託けて無益に過ごしてきたことを反省し、秋の夜長山ほどある宿題に取り掛かることにしました。」
秋に差し掛かった休日に、初就職地の浜田市と週一で出張していた大田市を訪れました。一人立ちし張り切った思い出多い国立浜田病院と看護学校は完全に消え失せ、駅裏に移りいずれも綺麗な高層建築に変貌していました。また国立大田病院はそのままでしたが大田市立病院に看板が変わっていました。約半世紀が経過しているので仕方がないと今浦島太郎の心境でした。
50年前地元に住みながら知らなかった石見銀山が発掘整備され、数年前に世界遺産に認定されたというので寄ってみました。観光地化された正面からのアプローチを止め、奥山からガイドの案内で長くつにヘルメットを付けて100Mの山道の所々に点在する坑道や間歩(まぶみ)を見学しました。過酷な条件下で狭い鉱脈をカンテラの明かり1つで砕石した当時を思うと辛いものがあります。抗夫は短命であったそうですが、周囲にお寺が多いのも納得しました。
坑道口のある場所を間歩(まぶみ)というそうです。坑道に入るので観光客は完全武装させられます。
人間がやっと入れるくらいの狭い鉱脈を煙の出るカンテラの明かりで掘り進んだそうですが想像を絶します。
徳川家康に任命された初代奉行大久保氏は槍を持ち馬に乗って坑道に入ったそうです。数十メートルもある坑道の高いところは丸太1本の支えで砕石していたそうでぞっとします。
江戸初期には一攫千金を求めて多くの人々が銀の鉱脈探しに躍起になったそうです。当たれば間歩の前に住居や精錬所を各自が作り成金になりましたが、使用人の抗夫はみじめで早死にしていたそうです。山の到る所に間歩が残されています。が、木々に覆われまだまだ未開発のところが多いとのことでした。
(T,A)